![]() |
![]() 訪ねあてた工房は、住宅街の中で、看板がなければわからないほどの地味なたたずまいだった。玄関の横には、乾燥させているのか、何枚もの板が大人の背丈ほどに重ねられていた。 十数年前に制作したギターを、職人自身がぽろんぽろんとつま弾くと、聞いたことのないような、深く大きな音が響いた。 良く鳴りますね。ちょうど鳴ってきたところです。ああ、いい音だ、とてもいい。 節くれだった手で、ボディをさすりながら、丁寧に扱っていますね、と褒めてくれた。 あちこちぶつけた傷が、製作者の手前、申し訳なかった。 あれ? 突然声をあげると、職人は、ギターを何度も水平にして、張られた弦と、その下の隙間を覗き込んだ。 フレットを低く削っていますね。ああそうか、そのほうが力のない方には引きやすいのでしょう。 気がつかなかった。 緩和ケアにはいる直前まで、このギターを弾いていた友が、きっと自分で削ったのだ。 手先が器用で、工夫屋だった彼女が、急に目の前に現れたような気がした。 このギターは、彼女のものだった。 先日のコンサートのとき、リハーサルの段階で、信じられないほどあがり、おろおろしたのに、本番では落ち着いて弾けたのは、もしかして、彼女が守ってくれたのか。 彼女のギターを聴いたのはたった一度だけだった。 本に囲まれた彼女の部屋で、ベッドに腰掛けて、弾いてくれたのだった。 ショパンの「別れの曲」を選んだ彼女の思いを汲みもせず、アンコールをせがんだ、のんきな自分を悔やんだのは、もう、ずい分前のことだ。 1週間くらいいただきます、という職人に、私にも弾きやすい高さのフレットは、くれぐれもそのままにと頼み、工房を出た。 レンチまだ?と息子が聞いた。 もう少し、とお嫁さんが笑いながら応えた。 レンチってなに?と聞くと、レンコンチップのことだという。 家族全員が集合した食卓でのこと。 息子たちがふたりとも、レンコンチップが好きだと知ったのは、それぞれ結婚してから、お嫁さんから聞かされた。 煮物のレンコンをあまり喜ばないので、いつからか食卓に上り始めた我が家のレンコンチップは、最初、片栗粉をまぶしたり、小麦粉で試したりした末に、素揚げという、今の形に落ち着いた。買ったポテトチップスよりいいだろうと、漬物のように当たり前に食卓の常連だったのだ。料理ともいえないものなので、まるで忘れていた。 子供たちが独立して、メタボが気になる食卓には、久しく縁がなかった揚げ物を、あつあつが美味しいからと、みんなが食卓につくころにお嫁さんが丁寧に揚げて、メニュウにくわえてくれるようになった。 離乳食の真っ最中の孫と、何でも食べられるようになってきた孫の、ふたりの赤ん坊を囲む賑やかな食卓で、「レンチ」はいつも、早々となくなる。 電話をすると、介護でなかなか出かけられない友が、今朝あなたの話をしていたばかりなのと、息を弾ませて出て来てくれた。 昔ながらの喫茶店で、昨日の続きのようなおしゃべり。 窓の外は阿佐ヶ谷ジャズストリート。 いきなり始まるサックスやドラムの音と、色づき始めた欅の色と、軽い躁状態に陥ったような人ごみは、まるで学園祭のようだ。 学生時代のこと、家族のこと、趣味のこと、今だから話せること。 ステンドガラスの外は、早い日暮れにもめげずにスィング。 とりとめのない話に彼女が20代の頃と同じしぐさで付け加えた。 「若いつもりでいたけど、部品にガタがきているのよね、目や歯や髪や・・」 ニニのなかにビビがいる。 ビビが逝って、初めてニニのなかにビビを見つけたときは、懐かしさに思わず抱きしめてしまった。 子犬のぴぴがきて、2ヶ月もたって、ニニがようやくその存在を認めるようになってからは、ニニなのか、ビビなのか、区別がつかないほどに、ニニはビビだ。 今度は、幼い顔のニニをみつけたときに抱きしめてしまう。 唸りあって遊ぶ、7年前と同じ光景の横で、年老いたレオが、迷惑そうに眼をしばたかせながら、安全な場所に移動を開始する。動作は老犬でも、剣がとれたレオは、顔つきが子犬のようにあどけない。 犬たちは賢く優しい甘えん坊だ。 いろいろなことを教えてくれる先生だ。 見知らぬ人間同士をつないでくれる天使だ。 自立を教えなくていい、永遠の子供だ。 かけがえのない友達だ。 楽しげな語らいがある。 次々と増えていく高層ビルの谷間に、奇跡的に残っている、崩れそうなモルタルの建物の、1階にある、小さな焼き鳥屋の、ランチタイム前の、少し開いたガラス戸の中から、こぼれている。 藍色のもんぺをはき、頭に手ぬぐいをかぶった小柄なおばあさんが、重ねた四角い竹の籠から、次々と取り出しているのは、たぶん、朝、収穫してきたばかりの野菜や、自分で煮たかもしれないお惣菜や、もしかして、自家製の漬物や干物か。 日焼けした顔が手ぬぐいの中で笑っている。 朝早く、遠い家を出て、いまが、食事の時間なのだろうか、話をしながら箸を口に運んでいる。 そんなに楽しい話は何だろう。 横に置いた背負子の籠には、あと何が入っているのだろう。 毎朝、どこから来るのだろう。 仕事に急ぐ足を止めるわけにはいかなくて、いつも、横目で通り過ぎる。 話に加わりたくて、耳をそばだてながら通り過ぎる。 往年のレオは、鋭い眼と耳と鼻と、とびっきりの気の強さとプライドの高さで、怖いもの知らずだった。武勇伝は数知れず、友達の中でも、喧嘩が強いと評判なフレンチブルとの死闘は、今でも語り草になっているほどだ。 そのレオの唯一の苦手は雷だ。人間に聞こえない音を聞く敏感な耳は、遥かな雷鳴を聞き分け、早々と、彼の落ち着きをなくさせた。雷が頭の上でとどろき始めると、プライドなどかなぐり捨てて、ブルブル震えながら、家の者につきまとったものだ。 しかしいま、レオは、平和だ。 必要なことだけ聞き分ければいい耳は、人間の命令と供に、雷鳴も遠ざけた。 猛烈な雷雨に、他の犬たちがどんなに騒いでも、レオの周りは静寂に包まれている。 |